42.11 「生産性のない会話がしたい」
#🧵42_知的生産の試行錯誤
1:tks.icon
from 2025/04/20
生産性のない会話をしたい
「男性」は、言い過ぎであれば少なくとも私は会話に意味を求めてしまう自覚がある
たまには生産性のない会話をしたい
つまり雑談
しかし、リアルで雑談するのは難しい
幸い、職場であっても雑談できる人はいる
公開Cosenseは雑談とは言えないが、生産性がなくても大丈夫
たとえば、私が今日パフェを食べてきたことを書くことに生産性はないが、書いてもいい
https://gyazo.com/c3768f2f8ff3026575aa932c4e954e30
実際はパフェは妻で、私はクレープ
公開Cosenseでなくても別に書いて良いのだけど
雑誌は言葉は似ているけれど目的やテーマがある
その意味で雑談とは違う
でも生産性のない雑誌はあり得る
本より雑誌の方が生産性は求められていない
2:倉下さん
from: /rashitamemo/2025/4/21#68058ef80000000000177b9b
to:42.11 「生産性のない会話がしたい」#680761cd00000000005485c2
生産性のない会話をしたい
生産性のない会話とは何か?
「男性」は、言い過ぎであれば少なくとも私は会話に意味を求めてしまう自覚がある
これは私もそうだ。
ところで、「会話に意味を求める」が「生産性のない会話」へと展開されているが両者は同一の概念か
生産性のない会話=(≒)意味のない会話 ?
ここでの「生産性」や「意味」は何が含意されている?
もちろん、言いたいことは十分理解した上で(さらに同意した上で)、言語的分析を行っている
誰かのゴシップを延々と話してそれで終わり、というような会話がある。あるいは誰かの愚痴を言って終わりというような。そうしたものは会話がなされたからといって、現実的な変化があるわけではない。よく言われる用語であれば、グルーミング。あるいは、歩いているときにすれ違って天気の話をするのは、礼儀(あるいはプロトコロルの確認)のためであろう。言い換えれば、何かしらの役割を持っている。その意味において、「意味」はある。
私が今日パフェを食べてきたことを書くことに生産性はない
ないのかもしれない。しかし、仮に私がそのパフェを食べたくなったらどうか。実際にそのお店にいってそれを食したとしたら、あるいは別のパフェで我慢したとしても、何かしらの作用はあった、と言える。あるいは、一週間後に振り返って、自分の人生についてしみじみよいなと思ったり、あるいは唐突に日本社会におけるパフェの普及の歴史を調べたくなったりしたらどうか。
もちろん、極端な例を挙げている。
考えたいのは、「今日パフェを食べてきたことを書くことに生産性はない」とするならば、何を書けば生産性があると言えるのか、ということ。この問いは「そもそも本を読んだと言えるのか」という問いと同じ水準で働いている。その線引きはそこまで明確なのかという疑問。
「業務において、自分の成果物を生み出す直接の役に立たない」ということが「生産性」という言葉で省略されているならば、たしかにその通り。しかし、その短縮はやや危うい気もする。
それはそれとして、「やりとりにおいて結論を求めず、ただ話したいことをそれぞれが話すだけの時間は、一見無意味に思えるけども、やっていると楽しいよね」なのは間違いない。
ダラダラだべりたい。
問い:「さあ、雑談しましょう」という促しは、その定義からして有効と言えるだろうか
セミナーやイベントの後の懇親会が楽しいのは、クラスタを共有する人たちと雑談できるからだろう
ああいう時間では全時間帯を通した共通のテーマがない。話題は次々と移っていく。そこは雑誌的だと言えそう。
2.1:鞘戸さん
from: /kohtecho/250421#6805be5f00000000002f00b5
to: 42.11 「生産性のない会話がしたい」#680761cd00000000005485c2
たまには生産性のない会話をしたい
こんなことを言ってみたい憧れはある
自分は生産的な会話をしよう!と意識しなければ、別にしなくてもいい会話をたくさんしている
たまには生産性のある会話をしたい、というのが自分の実情には合っている
めっちゃ興味があるわけではないニュースを取り上げて奥さんと語ったりする
自分がめっちゃ興味がある、たとえばこの生活ロギングだったり、手帳をどう使うかとかそんな話は、奥さんはまったく興味がないので、会話が成立しない
自分にとって生産性ある話かもしれないが、奥さんにとっては生産性のない話とも言える
書きながら考えたのだが、奥さんと対して興味があるわけでもないニュースについて語るのは、生産性あるのかもと思う
こんなことがあったらしいよ、へー、だけだと本当になにもないけど、それに対して自分だったら?みたいな考えは当然のってくる
共感を得られる場合が多いから、安心してそういうことをやっている
これはごきげんな夫婦生活を継続するために大事なことだろう
職場での雑談でも同じようなことが言えるかもしれない
3:tks.icon
from:2025/04/21
to:
/rashitamemo/2025/4/21#68058ef80000000000177b9b
42.11 「生産性のない会話がしたい」#68076207000000000096832e
ところで、「会話に意味を求める」が「生産性のない会話」へと展開されているが両者は同一の概念か
生産性のない会話=(≒)意味のない会話 ?
ここでの「生産性」や「意味」は何が含意されている?
tks.iconちょっと考えてみる
「生産性」や「意味」には自分軸ではなく他人軸で捉えようとすることが含まれている
他人軸≒第三者軸≒「社会にとって」の視点で物事が捉えられる
私がパフェを食べたことをそのまま受け取るのではなく、そこから何かを生み出そうとする動き
パフェを食べた→おいしそうですね・・・わかる
パフェを食べた→パフェの語源はね・・・まあ、わかる
パフェを食べた→パフェの分、運動したほうがいい・・・わからない
tks.iconこれは単純に失礼なだけだな。例が思いつかない
生産性と意味は違うのか
生産性は定義的には測定できるもの
インプットに対するアウトプット
生産性=役に立つだと捉えている気がする
先日の主張は「役に立たない話をしたい」とも言い換えられる
生産性には意図がある?と思ったけれど、例として挙げられているものは意図せぬ結果によって生産性が生まれる、あるいは間接的に生産性は生まれてしまう例に見えた
ということは意図ではなく結果が重要
意味のある=役に立つで使っていたかも
一方で役割としての意味については、一見無意味に見えるが意味はあるといったことだと思うけれど、役に立つって感じではない
共通した文脈、前提を持つための会話は意味はあるが生産性はないという感じ
とすると正確には違う
とはいえ定義次第
ただ定義次第の言葉を定義せずに使わない方がいい
一方で、だいたい合意が取れている言葉でもある気はする
そもそも生産性があるより、生産性がない状態を定義する方が難しい気がしてきた
主観的に見出してしまえば生産性がないものはない
何からでも生産性は見出せる
一般的にはそんな風に捉えられていない気はするが。
言われるとしたら、もっと生産性を高めなさいとしか言われない